時そば
寒風吹きすさぶ冬の夜。
江戸の町をそぞろ歩く一人の男が、屋台のそば屋を見つけて声をかけた。
「おい、そば屋!
寒いねぇ。何ができる?」
そば屋の主人は、手を止めて答える。
「へい、しっぽくそばがございますよ。」
「じゃあ、それを一つ頼むよ。」
男は屋台の前に腰を下ろし、そばができるのを待ちながら、そば屋の看板や道具を眺めては褒め始めた。
「いやぁ、この看板、いいねぇ。
『当たり矢』って縁起がいいじゃないか。
それに、この行灯も明るくて立派だ。」
そば屋の主人は、手際よくそばを作りながら、男の話に相槌を打つ。
「へい、ありがとうございます。」
やがて、湯気の立つそばが男の前に差し出された。
男は箸を取り、そばを一口すすると、さらに饒舌になった。
「おお、これはうまい!
そばの細さがちょうどいいし、汁のダシも絶品だ。
それに、この竹輪の厚み、これがまたいいねぇ。」
男はそばを食べ終えると、満足げに勘定を始めた。
「さて、いくらだい?」
「十六文でございます。」
「そうか、細かい銭しかないんだ。
間違えないように数えてくれよ。」
男はそば屋の主人の手のひらに、一文ずつ銭を置いていく。
「一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ
……ところで、今、何時(なんどき)だい?」
主人は少し驚いた様子で答える。
「へい、九つ(午前0時)でございます。」
「そうか、九つか。それじゃあ、十、十一、十二……」
男はそう言いながら、銭を置く手を止め、そば屋の主人に礼を言って立ち去った。
主人は特に気に留めることもなく、次の客を待つ。
しかし、近くでこの一部始終を見ていたもう一人の男が、何かに気づいたように呟いた。
「なるほど、あの男、一文ごまかしやがったな。
俺もやってみるか。」
翌晩、その男は小銭を用意して、そば屋を探し歩いた。
そして、別のそば屋を見つけると、同じように声をかけた。
「おい、そば屋!
寒いねぇ。何ができる?」
しかし、このそば屋は前夜のそば屋とは違い、どこか雑然としていた。
看板は汚れ、箸は使い回しのように黒ずんでいる。
出されたそばも、汁はしょっぱく、麺は太くてコシがない。
「なんだ、このそばは……
まぁいい、今日はそばを食べに来たんじゃない。」
男はそばを半分ほど残し、勘定を始めた。
「さて、いくらだ?」
「十六文でございます。」
「そうか、細かい銭しかないんだ。
間違えないように数えてくれよ。」
男は前夜の客を真似て、一文ずつ銭を置いていく。
「一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ
……ところで、今、何時だい?」
そば屋の主人は答える。
「へい、四つ(午後10時)でございます。」
男はそのまま気づかずに続けた。
「五つ、六つ、七つ、八つ……」
勘定を終えた男は、そば屋を後にしたが、しばらくしてようやく気づいた。
「あれ?
俺、余計に払っちまったじゃねぇか!」
男は悔しそうに頭を抱えたが、後の祭りだった。
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